2025年冬クール(1月クール)でアニメ配信やってますね。「チ。-地球の運動について-」です。
地動説を題材にしたマンガなんですけど、これがまた知的活動というか研究を題材にした珍しい漫画という感じで面白かったです。
アニメも面白くて、サカナクションのOPも作品に合っていてなかなか最高です。
その中で、”畢竟”という見慣れない言葉が出てくるシーンがあるんですが、実は判決文などでも見かける言い回しだったりするので、アニメを見つつその意味や場面についてざっと触れてみたいと思います。
※一部セリフなど含みますので、ネタバレ回避したい方はブラウザバックしていただければと思います
12歳の神童ラファウ
第一部は、「神童」と呼ばれる12歳の天才ラファウが主役の物語です。
🌏「チ。 ―地球の運動について―」本日21:15~再放送開始‼🌏
— 『チ。ー地球の運動についてー』【公式】 (@chikyu_chi) April 5, 2025
第1話「『地動説』、とでも呼ぼうか」
📢NHK Eテレ 4/5より毎週2枠で再放送開始!
1⃣土曜 21時15分 <1話:4/5>
2⃣火曜 24時00分 <1話:4/8深夜>
※放送予定は変更になる場合があります。https://t.co/2LgYgTYOG6… pic.twitter.com/KnAvq75ciR
ちょっと令和っぽいキャラというか、コスパ重視!という感じで生きていこうとする少年です。実際にもの凄く頭がよく(12歳で大学に進学できるほど)、かつ要領もいいというタイプ。
効率よく世の中をわたっていこう!みたいなスタンスで生きる少年で、実際にもそれが出来る子なのですが、地動説に出会い、いつの間にかしばしば違う言動が自分の中から出てくるようになる…というような流れで物語が進みます。
そのようなラファウが、敵役のノヴァク(教会の異端審問官で地動説を迫害する側)と対峙する場面があり、その中で”畢竟(ひっきょう)”という珍しい単語が出てきます。
この”畢竟”というのは、昔の判例なんかでもちょくちょく出てくる表現で、”蓋し(けだし)”などと並んで、最初読んだ時は、なにこれ?どういう意味?と思うものです。
意味としては、「つまるところ」とか「結局」というような意味になります。
ちなみに、”蓋し”は「思うに」みたいな意味で、「なぜなら」と読んだ方が意味が通りやすいようなときもあります
それなら、気取ってないではじめからそう言ってよ、って感じですけど(笑)。ただ、実はそういう言い回しとかっていうものは、規範というか、”法”を表現するときには(まぁ単に時代とか文章の格調っていうのもあるんでしょうけど)、意外と結構大事なんじゃないかな、とも思うんですよね。
ラファウの問答
ラファウがある行動をとった後、ノヴァクと相対して以下のように言い放つシーンがあります。
あなた方が相手にしてるのは僕じゃない。異端者でもない。
ある種の想像力であり好奇心であり逸脱で他者で外部で…
畢竟、それは知性だ。
引用:「チ。―地球の運動について―(1)」(魚豊)136頁/アニメ第3話「僕は、地動説を信じてます」
「畢竟」って、古い言い回しですけど、この場面に合ってるんですよね。雰囲気が。
もし、このシーンで、ラファウのセリフが
つまるところ、それは知性だ
とか
要するに、それは知性だ
だったとしたら、これでも意味は同じなんですが、やっぱり何かイマイチ物足りない感じがします。原文の方が絶対良いですよね。
「畢竟」という言葉は、実際の最高裁判決などにもよく登場し、特に上告を棄却するときに上告理由を退ける言い回しの中で、例えば
論旨は、ひっきょう、独自の見解に立って原判決を論難するものであって、採用することができない。
とか
論旨は、ひっきょう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。
などなどの表現で使われています。
管理人も法令や判例はわかりやすく開けていた方がよいと思う方なのですが、「チ。」のような場面を見ると、これはこれで昔の人たちがとろうとしていたスタンス(”響き”を大事にするというようなこと)も理解できるというか、それなりに一理あったんだろうな、という気になってきます。
規範と音
ところで、法制執務の本なんかを読んでいても、最近はそういう持って回ったような言い方をできるだけ簡素化していっている、という話はしばしば目にします。
例えば法令で「ホニャララは、これを〇〇する」といった表現があるときに、「これを」の部分は省くことができるので、最近の法令ではそういった表現を使っていない、という話があります。
これは、本来は目的語であるものを、文のテーマにするために主語に持ってくるときに、もとの目的語があった位置にも「これを」という形で形式的に目的語を残す、という書き方です。
漢文口調からきているものですが、文法的には必要ないものなので、昭和23年頃の法令からは使わないことになっているとされています(「法令作成の常識」(林修三)52頁、「最新 法令の読解法-やさしい法令の読み方」〔四訂版〕(田島信威)208頁など参照)。
例えば、
「これを」の使用例
- 「この法律は、日本国憲法施行の日から、これを施行する。」(地方自治法附則1条)
→文法的には「この法律は、日本国憲法施行の日から施行する。」でOK - 「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」(憲法10条)
→文法的には「日本国民たる要件は、法律で定める。」でOK - 「学問の自由は、これを保障する。」(憲法23条)
→文法的には「学問の自由は、保障する。」でOK
といったように、文法的にはアッサリと書くことができます。
※詳しくは、以下の関連記事に書いています
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法令作成を勉強しよう|条文の文章構造-主語・述語・目的語倒置
続きを見る
ただこれもやっぱり、そういうニュアンスとか音を重視しているというか、単純に情報を記述するよりも、ルールを示すこと、寄る辺となるべきものとか規範というものを、”響き”という領域で表現してるものなんじゃないかというような気もします。
単純に情報を書くだけなら「ホニャララは、ヘニャララする」となるんですけど、これだとちょっと淡泊というか、言っている事はわかるんですが、あんまりこう「そうだ!」っていう感じのニュアンスが起こらないですよね。
「学問の自由は、保障する。」より、「学問の自由は、これを保障する。」の方がインパクトが強い感じがします。決意が込められているというか。
昔の難しい言い回しとかそういうのは、わかりにくくするもの、人を遠ざけるもので、無駄だというふうに一般的にはおそらく思われていて、管理人もそうです。
ただ、「チ。」のこのシーンを見ていると、昔のそういった文化や考え方というのも、単に無駄なものだというよりは、それはそれで何か別のものを大事にしていたんだろうな、という気もしました。感覚的に。
要は「合理的」と考えるときのその「合理」っていう内容が、時代によって変わるということなんだろうなと。無駄というか、時代によって大事にするものが違っていたんだろうな、と思います。
結局、相対的にはという話ですが、昔は、感覚的に伝わるようにとかおごそかな感じとかにも注意を払っていたけれども、世の中が複雑になり、ルールが複雑・増量していくにつれて、情報を漏れなく記述することに重点が置かれるようになったみたいなところもあるんだろうなと。
ただ、複雑になればなるほど感覚的によくわからなくなり、行動ルールとしての準拠性というか、実際の肌感覚的な”法”とは遠ざかるんだろうな、という感じがしますかね。
結び
ということで、特に締めもありませんが、「チ。」の言い回しから、音とか言い回しっていうのは”響き”に関係するようなところがあって、意外と肌感覚的に大事だな、と思ったので書いてみました。
なお、物語の設定上、マンガでは拷問のシーンとかもけっこうあって、これアニメにするときはどうやってるんだろうなと思いましたけど、わりとシーン自体は省かずにアニメでも正面から取り上げており、プロダクションの妥協しない果敢な姿勢を感じました。
実際の現実との調整は、画面をかなり暗めにしたり描写によることで解決しており、そのへんのバランスもすごく良いなと(気は遣っているけど妥協はしない、みたいな感じ。コンテンツガイドラインとかもちゃんとやってるんだろなと)。なので、アニメを見ていても、いきなりびっくりするような心配はなく見ることができるようになっています。
▽サカナクションのOP
[注記]
本記事は管理人の私見であり、管理人の所属するいかなる団体の意見でもありません。また、正確な内容になるよう努めておりますが、誤った情報や最新でない情報になることがあります。具体的な問題については、適宜お近くの弁護士等にご相談等をご検討ください。本記事の内容によって生じたいかなる損害等についても一切の責任を負いかねますので、ご了承ください。