GWの余韻もあり、アニメを見ながらブログをのんびり書いていると、AbemaTVで「鬼滅の刃」の名場面のひとつ、柱合会議(第23話)が流れてきました。
やっぱ面白いやん…と思いながら、お館様の裁きを見て、話としても面白いし、けっこう説得力もあるよなあ…と思いまして。
なぜだろう?もし法律的に考えてみたときにどうなるのだろう、ということを考えてみたので、試しに書いてみたいと思います。
「柱合会議」というのは、お館様を迎えて鬼殺隊最強の剣士である「柱」たちが集う会議で、炭治郎とその妹・禰豆子の処遇が問題となる場面(第23話)になります。
炭治郎が、鬼を倒すための「鬼殺隊」の隊士であるにもかかわらず、鬼である禰豆子と行動を共にしていることが糾弾されて、その場で禰豆子を処刑すべきかどうかが問題になるのですが、お館様がこれに対する名裁きを見せるシーン。
どんな法だったか?
アニメとはいえ裁判である以上、「法」と「証拠」によって裁かれないとダメだろうなと思います。
ということで、この柱合会議で拠って立つ法はどんなだったか?というのを考えてみると、柱たちの会話から素直に考えれば、
「人を喰う鬼であれば、殺さねばならない。」
なのかなと。
「人を喰う」ことの証明責任は誰が負うのか?
そういうルールであったと想定すると、内容の解釈は、
【法律要件】
① 「人を喰う」
② 「鬼」であれば
【法律効果】
③ 殺さねばならない(=処刑)
となるかなと。
禰豆子が「鬼」であることは間違いないので、争点は、禰豆子が「人を喰う」かどうか、ということになります。
では、「人を喰う」かどうかの証明責任は、鬼殺隊側が負うのか、炭次郎側が負うのか、どっちになるのか?
刑事法であれば?
もしこれが刑事法なら、訴追側(=検察側)である鬼殺隊側が全面的に証明責任を負うことになるのかなと。
刑事法の世界では「疑わしきは被告人の利益に」という原理原則があるため(←グレーの場合に有罪にしちゃダメだから)、証明責任は基本的に全部、訴追側が負っているためです。
なので、お館様のセリフ、
「確かに禰豆子が人を喰わないという証拠はない。しかし、禰豆子が人を喰うという証拠もまた無い。」
「禰豆子は鬼になってから2年の間、人を喰っていないという事実がある。であれば、禰豆子が人を喰うと主張する側も、それなりの証拠を示さなければならない。」
というのは、正しいことになりそうです。
鬼であれば当然喰うだろうというだけでは足りない、というわけですな(鬼であることと、人を喰うこと、両方を立証すべし)。
民事法であれば?
しかし、鬼であれば普通は人を喰うという設定なので、それもちょっと変なのかなと。
鬼であれば当然喰うだろうから基本的には倒すべしで、そこにいちいち人を喰うかの立証を要していれば、むしろ鬼滅における社会は混乱しそう。
ということは、これは刑事法ではなく、民事法なのではないかと。
考えてみれば、禰豆子は(その時点では)人ではないですし。人に対する刑罰を科すときに考える刑事法は、ジャンル的に違うような気もします。
法的な扱いとしては、禰豆子は、現実世界における「器物」の類、たとえば、犬とか猫とかといったような、炭次郎の所有物としての位置付けとなる可能性が高いような気がします。
(禰豆子ファンのみなさますみません。あくまでフィクション的検討ですので💦)
そうすると、証明責任の分担については、民事訴訟法における通説である法律要件分類説によって考えることになりそう。
法律要件分類説というのは、自己に有利な法律効果を発生させようとする側が、その法律要件について証明責任を負う、という考え方のことです。
法律要件分類説は、最終的には個々の条文の趣旨解釈によるものだけど、本文・但書といった法形式もファクターのひとつになるし、原則・例外といった考え方もファクターのひとつとなります。
そうすると、鬼であれば人を喰うのが原則であるから、「人を喰わない」と主張する側に証明責任がある、と解釈することもできそうです。
世界観からすると、こちらの方がフィットしているのかなと。
とすると、本文・ただし書という法形式も考慮すると、
「鬼であれば、殺さねばならない。ただし、人を喰わない鬼であれば、この限りでない。」
という民事法であったと推察されます。(大真面目w)
そうすると、やはり、「人を喰うかどうか」の証明責任は、やはり「人を喰わない」ことを主張しようとする炭次郎側にあると考えられます。
お館様の名裁き
先ほど触れたように、お館様は、
「禰豆子は鬼になってから2年の間、人を喰っていないという事実がある。であれば、禰豆子が人を喰うと主張する側も、それなりの証拠を示さなければならない。」
という指摘をして、禰豆子を処刑しようと、血気にはやる柱たちの興奮をいったん鎮めたわけです。
禰豆子は2年間、実際、人を喰っていません(喰ったこともない)。たしかにこれは結構インパクトあります。一定程度の推認力を持つといってよさそう。
そして、最終的に、禰豆子は、渇く自分に血を飲ませようとする不死川の挑発にも乗ることなく、また、不死川に3回も刺された状態であったにもかかわらず、血を飲もうとしませんでした。
「これで証明は成った」と判断したお館様の名裁きにより、禰豆子は窮地を脱し、一命をとりとめたわけです(パチパチ👏)。
「人を喰わないと主張する側」に証明責任があるとしても、いったんその本証が成立したならば、「人を喰うと主張する側」も一定の証拠を示して反証せねばならない、とするお館様の考え方は法律的にも存在し、「間接反証」と呼ばれたりします。
▷間接反証|フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
別の言い方をすれば、証明の事実上の必要性が移り変わるということです。
喰わないことの証明責任を負う炭次郎側が、
「禰豆子は2年間、人を喰っていない(喰ったこともない)」
という事実を提示できたことにより、人を喰わないことの「本証」がいったん成立した、というふうに見ることができるのかなと思います。
これに対し、反証として、鬼殺隊側(不死川)が、
「禰豆子は現に人の血を飲む」(→ということは、人を喰いそう)
という事実を見せることで、人を喰う疑いを生ぜしめる「反証」をしようとしたものの、その事実の立証に失敗したわけです。
それどころか、逆に「現に不死川の挑発にもかかわらず、禰豆子は血を飲まなかった」という事実が示され、むしろ炭治郎側の立証を強める結果になっています。
(ちなみに現実の裁判でこういうのやるのって、もうイチかバチかみたいになるので、尋問でこういうやり方しても必ずしも感心されないと思いますね…)
まあ常識的な感覚でわかる話ですし、作者である吾峠呼世晴先生がそんなことを考えておられたかはわからないですけど、筋論を通した結果、法律的にもそうなってたという可能性はあるのかなと。
そういう、芯の通った考え方(?)だから、アニメの話と思って見ていても、見る側に刺さってくるのではないかと思います。
さらに深読みすると
しかし、さらにハタと考えてみると、柱合会議のこの結果も、禰豆子が人を喰わないことも、お館様自身は知っていたはずな気もします。
なぜかというと、お館様は、代々、産屋敷一族の当主だけがもつ第六感(予知能力)により、その結果もわかっていたとも考えられるので。
だからあえて(禰豆子が処刑されないとわかっていたから)そのままにしておいたのかなー、と。
しかし、お館様が自分でわかっていることと、他人(柱たち)を説得できるかどうかはまた別の話です。
お館様は、そのこと、つまり、裁判(裁き)とは他人を説得するためになされるものなのだということも、またわかっていたのではないかと。
結び
というわけで、柱合会議(第23話)は、
「鬼であれば、殺さねばならない。ただし、人を喰わない鬼であれば、この限りでない。」という民事法において、「人を喰わない」ことについて証明責任を負う炭次郎側が、ただし書の立証に成功した事例
であったと考えられます。
それにしても、さすがです…。お館様。
アメリカでも益々のヒットをお祈りしております。
[注記]
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