法律コラム

感覚でわかる著作権法|思想・表現二分論

Photo by Marianna OLE on Unsplash

感覚でわかるシリーズ。
今回は,著作権法の「思想・表現二分論」について。

GYAOアニメで、「終末のイゼッタ」を見た。イゼッタが、剣やスピアーを操る能力を使って、戦闘機や戦車を倒していく第三話は見ていてなかなか爽快である。

アニメを見ていて感じるのは、基本的な発想の部分でよく似たものが多いということである。学園設定とか、バトルとか、おにいちゃん設定とか…。イゼッタの能力も、「六花の勇者」のナッシェタニア姫の能力(「刃」の聖者として、剣を自在に操る)にめちゃ似ている。映像も似ている。

しかし、これが著作権を侵害しているかというと、そういう話にはならない。著作権法が保護しているのは具体的な表現であって、アイデアや思想ではないからである。これを「思想・表現二分論」という。

学生時代に勉強していて、腑に落ちた例えがある。「世界の中心で愛を叫ぶ」を題材にした例えなのだが、「白血病の女の子と男の子の恋の物語」というレベルはアイデアで、このレベルに著作権を認めるとこの後こういうモチーフの著作が出てこれなくなる。だから、著作権は認めない。

しかし、「白血病で学生時代に恋人を亡くした男が、大人になってからも恋人を忘れられず、その骨を持ち歩く物語」という風に具体的になっていくと、どこかのレベルで具体的表現としての著作権を侵害しているという判断になり易くなっていく、という説明だった。
いわば表現という川のなかの上流に位置する「アイデア」レベルでせき止めると、下流が広がっていかないので著作権は認めない、ということである。

イゼッタやナッシェタニアの「武器を操る能力」というのも、アイデア・発想の部分だろうので、ここに著作権を認めるべきではないだろう。(ただ、映像レベルでも結構似ているので、異論もあるかもしれない。)

いろいろなアニメが、発想レベルでよく似たもの(お約束的な)を踏まえつつ、バリエーションが増えて進化していく様子をみると、”上流で独占権を認めてその後の表現をせき止めてしまっては、文化が発展しないのだ”という著作権法の考え方について、なるほどなあと納得するのである。

以上,感覚でわかるシリーズでした。

※感覚でわかるシリーズは専門的・学術的正確さを目指したわけではないので,正確な理解については他の文献等を参照されるか,身近な専門家にご相談ください。

-法律コラム