司法修習が始まって以来、「ナメられてはいけない」というのと、「傲慢になってはいけない」というのは、いったいどうすれば両立するのか?という葛藤を心のどこかで感じていて、弁護修習→検察修習というプロセスの中で、けっこう現実的な問題となっている。
自分もけっこうプライド高いが、法曹関係者はもうちょっと腰が低い方がいいのではないか、という思いから、基本的に謙虚さを大事にして司法修習を過ごしてきたつもりである。が、けっこう気弱なところとか頼りなさがあって、それが前面に出るときもあり、弁護修習→検察修習というプロセスの中で、それが現実にあまりよろしくないというのを感じることが多くなった。
要するに、「ナメられてはいけない」というのも重要な要素なのである。プロフェッションなのだから当たり前だと言われてしまえばそれまでだが。
つい最近、ここらへんがこころの持ち様として難しいんだよねー、というようなことを話したときの、姉の返答。
(自分)
「『ナメられてはいけない』っていうのと『傲慢になってはいけない』っていうのを両立させるのって難しいんだけど、どうしたらいいんだろうね?」
(姉)
「人を活かす愛。それを心に持っていれば、表面上どんなに厳しくても、それは相手に伝わるんじゃないか。逆に、表面上甘い言葉を使っていても、実は相手を見下してるとかだとそれは雰囲気に出るし、それが最悪。人間っていうのは、自分のことを人に話して、こころの重荷を誰かに背負ってもらいたいっていう気持ちを持つのだと思う。相談に来る人とか犯罪を犯した人とかも同じ気持ちを持つんじゃないか。愛っていうのはいわゆる甘い感じの愛だけではなくて、ときには厳しいことも言って、その人を活かす、っていうのが本当の愛だと思う。」
「なかなか難しいよねー」という程度の会話を期待して気軽に聞いてみたら、予想以上に真面目な反応が返ってきて、妙に説得された(苦笑)。
そういえば、『捜査書類全集』にも取調の基本的心構えの部分に「鬼面仏心」ということを書いてましたね。